クローゼットから着替えとバスタオルを出して、眠っている原口さんを起こさないようにリビングを横切り、バスルームに向かう。一応脱衣スペースもあるし、スライドドアで隔(へだ)てられてはいるけれど。男性(それも彼氏じゃないけど好きな人)がそのドアの向こうで寝ている中で裸になるのはちょっと勇気がいる。 ――ほんの少しだけ抵抗を感じながらも服を脱ぎ、シャワーを浴びてサッパリしてから部屋着を着て、髪をドライヤーで乾(かわ)かして部屋に戻る。 でもベッドには入らず、向かったのは仕事スペースの机。……の上にある、白いノートパソコン。 以前、原口さんに話した〝バイトのためのパソコンの練習〟は、今や毎晩の日課になっている。本業である執筆の仕事がない時はもちろんだけど、本業の合間にも少しずつだけでも続けている。 Word(ワード)を起動させ、指をポキポキ鳴らしてからキーボードを叩き始めた。右手一本でならどうにできるようになったタイピングだけれど、左手の指まで動かそうとすると、どうにも思うように動いてくれなくて困る。 そして、キーボードと格闘(かくとう)すること約一時間ほど――。「あ~もう! また指つった! どうしてここで指もつれるかなぁ!? あ、そこ違う!」 変換を間違えたり、別のキーを押してしまったりして、一人でボヤき続けていると。「――先生? パソコンの特訓してたんですか?」「はい、……ってうわっ! 原口さんっ、いつの間に!?」 後ろから声がして、振り返った私は思わず飛び上がりそうになった。「えーっと、十分くらい前から? あまりにも真剣(しんけん)そうだったんで、おジャマしちゃ悪いかな、と思って声かけなかったんです」 ……十分前!? ということは、私のボヤきを全部聞かれていたってことだ……。「ゴメンなさい。私のボヤき、うるさくて目覚(さ)めちゃいました? それとも部屋の照明が眩(まぶ)しかったとか?」 彼が目を覚ました理由がそのどちらかだったら、どちらにしても私のせいだ。……けれど。「いえ、先生のせいじゃないです。たまたま喉(のど)が渇(かわ)いて目が覚めただけですから」「……あー、そうなんですね」 そりゃ、下戸なのにあれだけアルコールを摂(と)ったら喉も渇くでしょうよ。「それじゃ、何か飲み物淹(い)れてきますから。リビングで待ってて下さい」
「――はい、どうぞ」「ああ、すみません。頂きます」 グラスを受け取った原口さんは、よっぽど喉が渇いていたのか、一気にグビグビと半分くらい飲んでしまった。「――そういえば先生。僕、酔っ払ってる間の記憶がほとんどないんですけど。先生に何か失礼なこと言ってませんでした?」 一度グラスを置いた彼は、決まり悪そうに私に訊ねる。彼にしてみれば、記憶がなくなるほど酔ってしまったこと自体、私に対して失礼だと思っているんだろう。「いえ、失礼なことなんて何も……。ただ、バリバリ関西弁にはなってましたけど」 私はそう答えてから、フフフッと笑った。 そして失礼ではない(むしろ私は嬉しい)けど、彼は私のことを「べっぴんさん」とも言ってくれた。でも本人は覚えていないようなので、これは私の胸の内だけに収(おさ)めておこう。「そうですか……。またやっちまった……」 はぁ~っとため息をつき、原口さんはガックリとうなだれた。余談(よだん)だけれど、彼の関西弁はすっかり抜けて標準語に戻っている。もうすっかり酔いは醒めているらしい。「先生も、引きました? 僕の関西弁」「引きません。ってさっきも言いました」「……はあ」 彼はそれも覚えていないらしい。「ねえ原口さん。酔い始めてからどのあたりまで覚えてますか?」 原口さんは小首を傾げ、必死に自分の記憶を辿り始めた。「えーーっと……、確か、先生と井上さんがどうして別れたのかというあたりまでは」「はあ、そうですか……。なるほどね」 私は納得(なっとく)した。私の記憶でも、確か彼はその話の途中から関西弁になっていたように思うから。 じゃあ、その後に私が「原口さんの関西弁は好き」って言ったことも、彼は覚えていないのか……。――私も麦茶に口をつけた。「私ね、その時に言ったんですよ。『原口さんの関西弁は引かない。むしろ好きだ』って。――覚えてないならいいです」 誤解のないように、〝好き〟は嫌いか好きかの〝好き〟だと補足することも忘れない。「そういう意味の〝好き〟だったら、僕にもありますよ」「……え?」 原口さん、それはどういう意味? ――私は彼の次の言葉を待った。「先生が直筆で書かれる小説、僕は大好きなんです。編集者の役得(やくとく)ですよね、これって」「ああー……」 そっちか。そっちね。――私はちょっとだけ肩を落と
「内容はもちろんですけど、先生の原稿そのものから勢いというか、パワーみたいなものを感じるんです。『書くのが楽しい!』っていうのがガツンと伝わってくる」「へぇー、そうですか……。それはどうも」 彼の熱弁には若干(じゃっかん)引いたけど、正直私は嬉しかった。私の小説を一番愛してくれているのは原口さん。――それが本当だったんだと分かったから。 たとえ私自身のことを「好き」って言ってくれたんじゃなくても、好きな人の口からその言葉が出ただけで嬉しいやら照れ臭いやらでなんかむず痒(がゆ)い。「でも、パソコンの練習してるってあれ、本当だったんですね」「はい。……って、信じてなかったの!?」 私は思わず飲んでいた麦茶を噴(ふ)きそうになった。敬語も抜けちゃったけど、今はそれどころじゃない!「信じてましたけど。執筆のためにじゃないなら、僕はタッチすべきじゃないかと思ったんで」「…………」 これを優しさと取るか、冷たく突き放(はな)されたと取るか。私は反応に困った。「編集者としてはやっぱり、うるさく言うべきなんでしょうね。作家の将来のためだ、って。――でも、僕個人としては、先生には今のままでいてほしいんです」 今のまま。――背伸びせず、ムリをしないで、ってことなのかな?「だから、アルバイトのためにパソコンの練習をしてると聞いて、先生がムリなさってるんじゃないかと思って心配だったんです」「〝心配〟って……。でも、私にとっては必要なことなんです」 私はつい、原口さんにグチっていた。「私、まだパソコンに慣れてないからバイト先でいつも周りの人に迷惑かけてるんです。今日だって、お客様にお時間取らせちゃったし」「そうですか……。それで今日、ちょっと元気がなかったんですね」「えっ、気づいてたんですか?」 私は心底(しんそこ)驚(おどろ)いた。――この人、私のことをよく見てるなあ。まだ二年ちょっとの付き合いなのに、私のほんの些細(ささい)な変化も見逃(のが)さないなんて……。「はい。先生ほど表情がコロコロ変わる人はいませんから」「ああ……、そういうことか」 やっぱり私って分かりやすいらしい。 ちなみに今、このリビングはナツメ球の灯りだけで薄暗(うすぐら)いので、きっと彼には見えていない。一緒に麦茶を飲んでいるこの十数分間にもコロコロ変化していた私の表情が。
「……で! 話戻しますけど、私が夜(よ)な夜なパソコンの練習をしてるのは、店長やバイト仲間に迷惑をかけないようになりたいからなんです。アルバイトだって、仕事である以上いい加減な気持ちでやりたくな……っクシュンっ!」 言い終わらないうちに、私は盛大なくしゃみをしてしまった。……やば、湯冷(ざ)めしたかな?「大丈夫ですか?」「あー、はい。さっきシャワー浴びたから、ちょっと冷えたかなーって。――あっ、大丈夫です! 私、これくらいじゃ風邪引きませんから」「……そう言われても、心配になりますよ。湯上がりにそんな短パン姿でいられたら」「はうっ!?」 私の心臓が跳(は)ねた。どうしてこの人、この薄暗い中でそんなことまで分かっちゃうの!? ――まあ、「湯上がり」ってことは、シャンプーやボディーソープの香りで分かったんだろうけど(私自身も言ったし)。短パン穿(は)いてることまでは分からないと思ったのに。「原口さんっ!? み……み……見えてるんですか!?」 まさかネコじゃあるまいし、と心の中でセルフツッコミを入れたけれど。「えっ、本当に穿いてるんですか?」「はあ?」 なんだ、ただカマをかけられただけか。「見えてませんよ。見えてたら、僕は平常心を保(たも)っていられなくなります」「…………えっ?」 私は目をしばたたかせる。――それはつまり、理性が利(き)かなくなるってことだろうか?「僕も一応その……、男なんで」 もしかして原口さん,赤くなってる? 薄暗くて見えないのが残念。 そういえば、琴音先生にもこないだ言われたっけなあ。『ナミちゃんだって十分可愛いし魅力的よ』って。自分ではあんまり自信なかったけど……。 ――それにしても、このシチュエーションってなんか……アレじゃない? 薄暗い部屋に、男女二人っきり。映画とか小説とかだと、この流れでキスとかまで行っちゃいそうな感じなんだけど……。「――巻田先生」「はっ、ハイっ!」 唐突に名前を呼ばれ、私の心臓がまた跳ねた。と同時に、ついつい期待してしまう。 原口さんは一体、どんなふうに私にキスしてくれるんだろう、って。――まだ付き合っているわけでもないのに……。 ――ところが。「明日、バイトは? 日曜ですけど」「…………へ? ああ、あの。出勤です」 そんな私に彼から投げかけられたのは、何とも色気の
再びソファーに横になった原口さんに毛布をかけてあげると、私は自分が使っていた分のグラスもお盆に載せてキッチンの流しまで持っていき、キチンと洗いものを片付けてから部屋に戻った。 時刻は十一時半。ベッドに潜(もぐ)り込んだけれど、ドキドキしていてなかなか寝付けない。 ――さっきは期待して損した。でも……、彼は優しくて真面目(マジメ)な人だ。 酔い潰れていても、決して狼(おおかみ)にはならなかった。むしろ、「泊まるなんてとんでもないです!」と遠慮していたほど、彼は紳士(ジェントルマン)だ。 彼ならきっと、恋人になっても私のことを大事にしてくれる。潤(アイツ)みたいに非情(ひじょう)な選択を迫ったりしないだろう。「……あー、明日もバイトだ。早く寝なきゃいけないのに……」 何度か寝返りを打っているうちに、すっかり疲れ切っていた私はいつの間にかストンと眠りに落ちていた――。 * * * * ――翌朝。熟睡というほどの熟睡はできなかったけれど、私は何とか朝七時に目を覚(さ)ました。 それは決して、リビングで眠っていた原口さんのイビキがうるさかったから……ではなく。「好きな人が一つ屋根の下にいる」という状況と二年も離れていたから、久々に味わうスリリングな夜に馴染(なじ)めなかったせいである。 ただ、私は基本的に朝には強い(ただし、締め切り明けには必ず撃沈(げきちん)している)。バイトの出勤日には、たとえ前の夜にお酒を飲んでいてもちゃんと朝早く起きられるのだ。 洗顔と身支度を済ませ、今いるのはキッチン。二日酔いになっているだろう原口さんのために、私の朝ゴハンも兼ねてシジミ入りのお味噌汁を作っているところだ。「――うん、上出来」 味見をして、会心の出来に満足して頷く。ちゃんとお出汁(だし)がきいていて、お味噌の味も濃(こ)すぎず薄すぎずちょうどいい。 キッチンからは、原口さんが寝ているリビングが丸見えだ。 ここまで来る時、私は彼を起こさないよう細心(さいしん)の注意を払った。……まあどのみち、二日酔いで撃沈している彼のことだから、そう簡単に目を覚まさないとは思うけれど。 ――余談だけれど、サラリーマンである私の父もお酒に弱くて、母がよく二日酔いの父のためにこうしてシジミ汁を作ってあげている。……多分、今も。 アルコールが苦手でもお酒の席には付き
昨夜、原口さんは部屋が薄暗くて私の姿が見えなかったから、どうにか理性を保てていられたらしい。 じゃあ、もし部屋がもっと明るくて、私の格好がよく見えていたらどうなっていたんだろう? 私はショートパンツ姿で、ナマ足を惜(お)し気(げ)もなく(?)披露(ひろう)していたし、胸だってけっこうグラマーな方だと自負(じふ)している。 それに、湯上がりだったからいい香りもしていただろうし。 数週間前の朝、私の寝起き姿を見た時だって、彼は落ち着かない様子だった。もしかしたら、本当にキスどころか一線を越えてしまっていたかもしれない。「いやいやいやいや! ないない」 だって、あの原口さんだもん。優しいけど生真面目(キマジメ)。そんな彼が、理性を失って豹変(ひょうへん)するなんて想像がつかないのだ。「…………考えるの、やめとこ」 もう一度ため息をついて、私は暴走しがちな思考を打ち切った。「――おはようございます」 刻み終えたお漬けものを小鉢(こばち)に盛り付けている間に、原口さんが起きてきた。「あ、おはようございます」「昨夜はご迷惑かけてすみませんでした」「いえ、別に迷惑だなんて……。――あ、ソファー、寝づらかったんじゃないですか?」 しきりに首の後ろをさすっている彼に、私は訊いてみた。「あー……、はい。ちょっと首が……」「やっぱり?」 ウチのソファーで寝た者の、当然の結果である。しかも、彼は長身なのにムリな体勢で寝ていたからなおさらだろう。「あと、頭も痛くて……。二日酔いかな」「……はあ」 それは知らんがな。弱いのに潰れるまで飲んだんだから、自業自得だろうに。 とはいえ、シジミのお味噌汁を作ったのは正解だったみたい。「朝ゴハン、食べて行かれますか? シジミ汁と白菜のお漬けものですけど」「ああ……、どうりでさっきからいい匂(にお)いがするわけだ。ありがとうございます。頂きます」 原口さん、食欲はあるみたい。私もホッとした。「じゃ、今から支度するんで、その間に洗面所で顔を洗ってきて下さい。――あっ、玉子焼きか何か作ります?」 朝ゴハンとはいえ、男性はそれだけじゃもの足りないんじゃないだろうか?「いえ、大丈夫です。二日酔いの胃には重いので。――じゃ、顔洗ってきます」 彼が洗面所に行くと、私はテーブルの上を整えながら反省した。 考え
――原口さんに食べてもらう分は、ウチに置いてあった男モノの食器に盛り付けた。 この食器は潤と付き合っていた頃、この部屋に入り浸(びた)っていたアイツのために買い揃(そろ)えてあったものだ。 アイツとは別れてしまったけれど、物に罪(つみ)はないので食器は捨てずに置いてあった。 果たして、これを見た時に原口さんはどんな反応をするんだろうか? 私を〝未練たらしい女〟だと思うだろうか――?「――あ」 原口さんがサッパリした顔でダイニングに戻ってきた。「洗面所お借りしました。――シェーバーがないのは……仕方ないですよねえ」「あるワケないじゃないですか、そんなの」 私は真顔でツッコんだ。女の一人暮らしでしかも、この二年間男性が(父も含めて)この部屋に泊まっていったことなんてないのだから。「ですよねえ。ああ、僕ヒゲは濃くないので大丈夫です」 何が「大丈夫」なんだかよく分からないけれど、彼が納得しているならそれでいいか。「――じゃ、座って下さい。ゴハン食べましょう、ね」 私と原口さんは二人掛けテーブルに向かい合わせで座り、二人で「いただきます」と手を合わせてから食べ始めた。 ……のはいいとして。やっぱりというか何というか、原口さんから男モノの食器(主にお茶碗(わん)と箸)についてツッコまれた。「そういえば、どうしてこの部屋に男モノの食器が置いてあるんですか? 先生って一人暮らしですよね。お皿やグラスはともかく」 友達や家族がよく遊びに来るし、原口さんだって仕事でちょくちょく訪(たず)ねてくるので、お皿やグラス・カップ類が多くストックしてあるのは不思議に思われなかったらしい。「ああ。それ、元々は潤のために買い揃えてあったんですけど。物に罪はないし、捨てるの勿体ないでしょ? まだ使えるのに」 我ながら、言っていることが所帯(しょたい)じみているなと思う。結婚どころか同棲(どうせい)している彼氏もいないのに、主婦みたいだ。「――そんなことより、味はどうですか?」 彼に私の手料理を食べてもらうのは初めてなので、お味噌汁をすすっている彼に感想を訊いた。「うまいっす。先生って家庭的なんですね。料理は上手だし、片付けも得意みたいだし」「いえいえ! そんな」 私は恐縮したけれど、内心ではすごく嬉しかった。……ただ、「先生って〝意外と〟家庭的」と言われ
「うちの母も、よく二日酔いになる父のためにシジミ汁を作ってました。私が料理上手なんだとしたら、きっと母に似たんだと思います」「なるほど、そうなんですか。――お父様のご職業は?」 原口さんから、私の家族のことを訊かれたのも初めてだ。なんだかお見合いの時みたいな(経験はないけど)妙な気分になる。「父は大手商社に勤(つと)めるサラリーマンです。原口さんと一緒で下戸なんですけど、接待とか仕事上のお付き合いとかで飲まされることが多いらしくて……。会社員の人って大変ですね」 原口さんも同じ会社員だ。業種こそ違うけど、少なからずお父さんにシンパシーを感じたらしく、「はい」と頷いている。「私も父から、『作家なんて安定しない仕事なんだから、もっと実直な進路(みち)を選べ』って昔言われたんです。高校生の時だったと思いますけど」「そうですね……。確かに、無事デビューできても安定して売れ続ける作家さんは数少ないと思います」「でも昨日、私がバイトしてる本屋で私の最新刊、発売初日で入荷(にゅうか)した分が完売したんですよ! すごいと思いません!?」 私だって天狗(テング)にはなりたくないけれど、これだけは胸を張って言いたかった。「初日入荷分が完売!? それはすごいことですよ! もしかしたら重版されるかも」「でしょ!? だから私、自分の仕事に誇(ほこ)りを持ってるんです。父も最近は、私が作家でいることを認めてくれてるみたいで」「よかったですね、先生」「はい」 家族に内緒で作家をしているよりも、家族に応援してもらいながら執筆の仕事ができる方が断然いい。 ――昨夜から私と原口さんの距離が、ほんの少し縮(ちぢ)まった気がする。 私は原口さんの今まで知らなかった面を、原口さんは私の過去や家族のことを知れた。 本当にほんの少しだけど、彼に近付くことができたと思ってもいいのかな……?
「――なるほどねえ。今回の仕事にアンタが気合入ってる理由が分かったよ」「へ?」「好きな人のための仕事だもんね。そりゃ気合も入るってもんだわ」「……うん」 もっと冷やかされるかと思ったけど、美加は親友らしい言い方で私を気遣ってくれた。「アンタは昔っからムリして男に合わせようとするとこあったけど、今度は大丈夫そうだね。同じ小説を愛する者同士なら」「うん」 彼女はよく知っている。私の過去の恋は、ほとんど私が背伸びをしすぎたせいでダメになっていたことを。でも、今回は背伸びする必要なんてない。原口さんはもう二年以上、こんな私をすぐ近くで見ていたのだから。 私と美加は、氷が解けて少し薄くなったアイスカフェオレを飲んだ。お互いに喋りまくっていたので喉がカラカラなのだ。「――でもいいなー。小説家の想い人が編集者さんなんて。まんま小説の世界みたいでロマンチックだよねえ」 うっとりと目を細める美加。夢を叶えたとはいえ、雇われの身である彼女はこういう世界に憧れるのかもしれない(それを言うなら私もバイトとして雇われている身だけど、それはこの際置いといて)。……でも。「作家の世界ってそんなにキラキラしたものじゃないよ? 現実はけっこうシビアなんだから」 この二年、現実(リアル)に作家をやってきた私だから分かる。印税だけで優雅(ゆうが)
「でもね、教授には褒められたの。『自分のスタイルを貫(つらぬ)いてるのは偉いですね』って」「ふーん? でもそれって結果オーライなんじゃないの?」「……そうとも言うよね」 そういえばその教授にこうも言われた。『今のデジタル時代に手書きなんて珍しいですね』と。それでも教授が私の卒業を認めてくれたのは、私がすでに文壇(ぶんだん)デビューを果たしていたからだろう。「――じゃあ、次ね。恋愛について、私はどんな感じだったと思う?」 何だか立場が逆転しかけていたので、私は急いで次の質問に移(うつ)った。「どんな、って。――う~ん……、一言で言えば〝一途(いちず)、でも不器用〟って感じ?」 美加の返答を聞いて思い出したのは、高校時代に付き合っていた同級生の男子について。 ――当時、高校二年生だった私には生まれて初めてできた彼氏がいた。とはいっても私の方から好きになったわけではなく、彼の方から告白されて付き合うようになった。どうも私は、潤の時といい告白されて付き合うパターンが多いらしい。 ――それはともかく。あ
「それはさあ、〝新たな試み〟ってヤツなんじゃないの? 〈ガーネット〉と違って作家の素顔も知ってもらおう的(てき)な」「あー、なるほど」 美加がどうして作家業の私以上に出版業界の内情に詳しいのかはさておき、彼女の推理はあながち間違ってないかもと思った。 〈ガーネット〉は秘密主義のレーベルで、作家のプロフィールは顔写真も含めてほとんど公開されていない(知り合いがファンなら顔を知られていても不思議はないけど)。 だから、作家がファンと直接触れ合える機会(サイン会とか)もない。原口さんにはそれも不満だったんじゃないかと思う。「――さて、じゃインタビュー始めるね」 私はバッグからプロット用ノートとペンケースを取り出し、ノートのページを開く。「オッケー☆ で、どんなこと聞きたい?」「えーっとねえ。美加から見て、私ってどんな子だったと思う?」 お父さんとお母さんにも同じ質問をしたけれど、親と友人とでは見え方も違うと思う。「そうだなぁ……。〝まっすぐ〟っていうか〝猪突(ちょとつ)猛進(もうしん)〟っていうか。いつも夢に向かって一直線な感じだったね」 それ、両親とほぼ同じ答えだよ。――私はシャープペンシルを握ったまま固まった。「あー……そう。他には?」 せっかくのインタビューなんだし、もっと別の言葉が聞きたい。「うーんと、読書好きで、いつも何か書いてたよね。わき目もふらずに作家になることばっかり考えてるなあ、ってあたし思ってた」「それって褒めてるの? 貶してるの?」 私は書き留めようとした手を止め、口を尖(とが)らせた。「いや、もちろん褒めてるんだよ? アンタのそういうところ、羨ましいなあって思ってた。あたしも負けてらんないなあって」「……そうだったんだ。そりゃどうも」 一応褒め言葉らしいので、私はそれをノートに書き留めた。 〝いつも夢に向かって一直線〟 〝読書好きで、いつも何か書いていた〟 いざ文字にしてみると、自分のこととはいえ何だか照れ臭い。でも、これが自分を俯瞰するってことなのかもしれない。「――そういや、どうでもいいんだけどさ。奈美って今でも原稿手書きなんでしょ?」「……? うん、そうだよ?」 何を今更。美加は前から知っているはずなのに。「じゃあさ、大学の卒論(そつろん)は?」 卒業論文……。確かにあれが教授に認められ
「電話した時にちゃんと説明すればよかったね。――今日私が美加に訊きたいのは、昔の私自身のこと。この結婚式場とは何の関係もないの」「ほえ……、〝取材〟ってそういうこと。あたしはてっきり、ウェディングプランナーがヒロインの話でも書くのかと」 ……おっ。美加、ナイスパス! まさかこんなところで小説のネタをゲットできるなんて! 私は内心ガッツポーズを作りつつ、話をさりげなく元に戻した。「その案は次の機会に使わせてもらうけど。――実は私、八月にエッセイを出版することになって。今日もお昼まで実家にいて、両親に話聞いたりしてたの」「なるほどねー、〝過去の自分への取材〟ってワケか。それであたしを訪ねてきたんだねー」 美加は私を、事務棟の中にある小さなカフェスペースに連れてきた。「ここね、あたし達スタッフが休憩取ったり仕事の打ち合わせに使ったりしてるの。ここでならゆっくり取材できるでしょ?」「うん。ありがと、美加」 ここには椅子もテーブルも備(そな)わっている。ベンチで横並びよりはゆったりと話を聞けそうだ。「――じゃああたし、自販機で飲み物買ってくるよ。アイスカフェオレでいい?」「うん」 ホットにしなかったのは、彼女も私が猫舌なのを覚えてくれていたからだろう。「――お待たせ。あたしも同じのにした」 美加は紙コップを二つ、テーブルに置く。「ありがと。……あ、お金――」 私は財布の小銭入れを探(さぐ)った。せっかく取材を受けてくれるのに、取材費は払えないからせめてコーヒー代くらいは返さないと。……と思ったけれど。「あー、いいよいいよ。それより、エッセイの話、詳しく聞かせてくんない?」 美加はやんわりとそれを断り、私の向かいに座って自分の分の紙コップを引き寄せた。 私もアイスカフェオレを一口飲み、今回エッセイ執筆を依頼された経緯を話した。「――ふーん? 出版業界もけっこうブラックなんだねえ。原口さんって編集者さん、なんかかわいそう」 美加は何でもズケズケ言う性格(タチ)なので、圧力をかけてきた蒲生先生に怒っているのかと思いきや、意外にも原口さんに同情的な感想を漏らした。「でもさあ、転んでもタダじゃ起きない人みたいだね。異動を逆(さか)手(て)に取って、新しいレーベル始めちゃうなんてスゴいよねー」「うん、それは私も思った」 パワハラに屈するどこ
実家を出たその足で電車を乗り継ぎ、私は新宿にある美加の職場へ。 ――ジューンブライドにはまだ早いけど、結婚式場のチャペルには式を挙(あ)げている幸せそうなカップルと、彼らを祝福する大勢の参列者がいた。 今日がいいお天気でよかった。人生の新たなスタートを切った二人の未来が明るいものになるようにと願いつつ、私は美加が働いている事務棟(とう)に入っていく。「――あ、奈美! 今日は来てくれてありがと! 待ってたよ~!」「美加ー! 久しぶり~~っ!」 エントランスで待ってくれていた美加と私は、ここが彼女の職場だということも忘れて会った瞬間に抱き合った。時間が一気に高校時代に戻った気がする。「奈美、元気そうだね。本読んでるよ、あたし!」「ありがと、美加! 仕事中にゴメンね!」 結婚式場のユニフォームである紺色のスーツを着ている彼女はすごく誇らしげだ。首元のオレンジ色のスカーフが眩しい。「いいってことよ☆ 上司にはちゃんと言ってあるから。『今日、作家の巻田ナミ先生が取材に来るんです』って」「美加ぁ~……」 確かにその通りなんだけど、お願いだからハードル上げるのはやめてほしい。「ウチのチーフがね、巻田ナミの大ファンでさ。奈美が来るって聞いた途端にテンション上がりまくっちゃって」「へえ、こんなところにも私のファンがね」 親友の上司も私の本を読んでくれているなんて。世間(せけん)って狭いというか何というか。「っていうかあたし、奈美が一人で来るなんて思ってなかったよー。てっきりついでに彼氏でも紹介してくれるもんだとばっかり」「いないよ、彼氏なんて」 私はキッパリ否定した。というか、どこの世界に恋人を取材に連れてくる作家がいるんだろうか。……いや、探せばいるかもしれないけど。「だってさあ、アンタのその格好がなんか気合入りまくってるから」「あー、そういうことか」「……は?」 さっき実家で、「予定がある」って私が言った時に両親が「デートか?」ってやたら騒いでいた理由がやっと分かった。 私が今日着ているのは七分袖のフワッとしたカットソーに白のチノパン、そしてスニーカーではなく若草色のフラットパンプス。実家に帰るだけならまだしも、「取材だから」とやたら気合を入れてめかし込んできたら、誤解を生んでしまったらしい。「ううん、こっちの話。――あ、そうそう
「いや、〝迷惑〟なんてとんでもない。その頑固さがあったから今のお前がいるんだろ? もし父さんの言いなりになってたら、お前は今頃悔(く)やんでたんじゃないか」「……うん、そうかもね」 私は元々、刺激のない毎日も、誰かに使われるのも好きじゃない。性(しょう)に合わないのだ。 普通に就職して会社勤めをしていたら、確かに安定はしていたと思う。毎月キチンとした収入が入り、正規雇用で将来も安泰(あんたい)。 でも私は、誰かのご機嫌(きげん)伺いをしながら退屈な毎日を送るなんてまっぴらごめんだった。やりたいことがあるなら、それを仕事にするのが一番いい。生活は大変だけど、認められた時の喜びは大きいしやり甲斐もある。「私、作家になったこと後悔してないよ。楽しいことばっかりじゃないけど、自分が選んだ道だもん」「そうか。それを聞いて安心したよ。父さんも母さんも、これからも応援してるからな」「そうよー。困ったことがあったら、いつでも連絡してらっしゃい」「うん! 二人とも、ありがと!」 やっぱり、家族が味方っていいな。小説家って孤独(こどく)な職業だけど、こうして支えてくれる人達がいるから「私、一人じゃないんだ」って思える。それってすごくありがたいことだと思う。「――そろそろお昼の準備しなきゃ」 母が壁(かべ)の時計を見て言った。時刻は十二時五分前。あれだけのアルバムを見て、両親に話を聞いていたら、もうそんな時間になっていたのだ。「チャーハンとスープでいい?」「うん。――あ、手伝うよ」 母と二人で台所に立つのもお正月以来だ。でも、独(ひと)り立ちしてからずっと自炊をしているから(たまに手抜きで外食やテイクアウトも利用するけど)料理の腕は日に日に上達している……はず。 親子三人で食べる久しぶりのゴハンは、楽しい両親のおかげで賑(にぎ)やかだった。 お昼ゴハンが済むと、私は後片付けを手伝ってから実家を後にした。「今日はありがと。慌ただしくてゴメンね。またゆっくり来るから」 出がけに玄関まで見送ってくれた両親にお礼を言うと、母に逆に謝られた。「こっちこそ、大した手伝いもできなくてゴメンね。美加ちゃんによろしく伝えてね」「うん。伝えとくよ。じゃあまたね!」
――麦茶のグラスを置くと、私はアルバムの山を抱えてソファーに戻った。「重いだろ? 父さんも手伝おうか」「あっ、ありがと。助かるよ」 父にも手伝ってもらって、全部のアルバムをソファーに運び終えた。「ゴメンね、お父さん。狭くなっちゃたけど……」 ソファーの上をほとんどアルバムに占領(せんりょう)されてしまい、端っこに追いやられてしまった父に、私は申し訳ない気持ちになった。「いいって、気にするな。父さんはカーペットの上にでも座ってるから」「うん……、お父さんがそれでいいなら」 この家の主(あるじ)は父なんだけど、本当にいいのかなあ?「――さて、どれから見ようかな」 アルバムは小・中・高校・大学の卒業アルバムからポケットアルバムまであり、卒アル以外はいつ撮(と)られた写真かすぐに分かるように背表紙にラベルシールが貼られている。 ここはやっぱり年齢順でしょうと、私はまず幼い頃の分を開いた。「わあ、懐(なつ)かしいな。私、小さい頃ってこんな感じだったんだー」 お宮参り、お食い初(ぞ)め、初(はつ)節句に七五三。保育園の入園式にお遊戯(ゆうぎ)会。何かの節目(ふしめ)や行事のたびに、私の両親はフィルムのカメラやデジカメで私の写真を撮ってくれていた。「――あ、コレ……」 大学時代の写真は半分以上、潤との2(ツー)ショット写真だ。私が自分のスマホで自撮(じど)りした写真をコンビニプリントしたのだ。 その中には、成人式の時に二人で撮ったものもある。潤と別れる数ヶ月前の写真だ。アイツと二人、こんなにいい表情(かお)をして笑っていられた時期もあったんだなあ……。「――奈美、少しは参考になった?」 大学の卒アルまで見終えると、母がそう訊いてきた。「うん。おかげで私、自分がどんな人間なのか客観的に分かった気がする」 自分自身を第三者的な目で俯(ふ)瞰(かん)する機会なんてめったにないから。この仕事を通じていい機会をもらえたと、原口さんに心から感謝したい。 ――そうだ! ちょうどいい機会だし、両親に改めて訊いたことがないからこの際訊いてみよう!「ねえ。お父さんとお母さんから見て、私ってどんな子だった?」 クッションを抱き締め、私は初めて両親を〝取材〟した。――ノートと筆記具を出そうかとも思ったけれど、両親相手にそこまでするのは大げさかな、と思った
「――お茶が入ったわよー」 母がお盆を持って居間に来た。そして自分と父の前には湯呑(の)みを、私の前には冷たい麦茶が入ったグラスを置く。私が猫舌だということを、ちゃんと覚えていてくれたらしい。「ありがと、お母さん。――あの、アルバムも。大変だったんでしょ?」「娘がいい作品書くためだったら、親ならこれくらいの協力惜しまないわよ。ね、お父さん?」 母に水を向けられ、父も頷いた。「ああ」 私っていい両親を持ったなあ。――そうしみじみと実感しながら、私はグラスの麦茶を飲んだ。「――今日はゆっくりしていけるのか?」「そうよ、奈美。今晩泊まっていったら?」 その両親が、矢(や)継(つ)ぎ早(ばや)に訊ねてくる。「ゴメン、二人とも! 泊まっていくのはムリなの。明日はバイトあるし、今日も午後から予定があって……」「予定って、もしかしてデートか?」「あら! あんた、そんな男性(ひと)いるの?」「いないよ、そんな人っ!」 私は麦茶を噴きそうになった。確かに好きな人はいるけれど、原口さんはまだそんな人(=(イコール)デートする相手)には当てはまらない。――私の中では〝予定〟もしくは〝候(こう)補(ほ)〟ではあるんだけど。「そうじゃなくて、友達に会いに行く約束してるの。――中(なか)野(の)美加(みか)ってコ、覚えてるでしょ?」「ああ、美加ちゃんね? 覚えてるわよ」 美加は私と小・中・高校まで一緒だった幼なじみの親友で、この家にもよく遊びに来ていた。「美加ね、この春から新宿(しんじゅく)の結婚式場で働いてて。今日も出勤してるらしいから、職場まで会いに行くことになってるの」 彼女は高校を卒業後、「ウェディングプランナーになる」という夢を叶えるべくブライダル関係の専門学校に進み、先月晴れて今の職場に就職できたのだと、本人からLINEをもらった。「そうか……、残念だ。久しぶりに帰ってきたと思ったのになあ」「そうねえ。――でも早いものね。美加ちゃんももう社会人なんて」 ……そっか。私の同級生だった子はほとんどみんな、今は社会に出てるんだ。私みたいに非正規だったりもするけど。「うん……。――あー、でもお昼まではこっちにいるから。アルバム見せてもらって、お昼ゴハン食べてからここ出るね」 親子三人揃ってゴハンを食べるのも久しぶりだ。普段は一人淋しく食事
――土曜日。私は母に電話した通り、墨田(すみだ)区内に建つ実家に帰った。 この家は二階建ての建(た)て売(う)り物件で、そんなに立派じゃないけれどちゃんとした父の持ち家だ。作家デビューするまでの二十年ちょっと、私はこの家で育ち、大学にもこの家から通(かよ)っていた。 そして、洛陽社からの大賞受賞の連絡を受けたのも、この家でだった。「――ただいま、お母さん!」 帰るのは実に数ヶ月ぶりとなる実家の玄関で、私は出迎えてくれた母に笑顔で言った。 前に帰ってきたのは今年のお正月だった。バイト先である〈きよづか書店〉もちょうどお正月休みで、その頃連載の仕事(今月出た新作の一コ前)を抱えていた私は実家に書きかけの原稿を持ち込んで、自分の部屋で仕事をさせてもらっていたっけな。「お帰りなさい、奈美。お父さんなら居間(いま)にいるわよ」「うん。ありがとね」 私は居間に向かう。母は「お茶でも淹れてくるわね」と台所に消えた。 母は四十八歳。今でも現役(げんえき)で高校の国語教師をしている。父は母の二歳年上で、大学時代の先輩後輩らしい。社会に出てから再会して、付き合い始めたんだとか。「――お父さん、ただいま。久しぶりだね」 居間のソファーに座ってTV(テレビ)を観(み)ていた父は、私が声をかけるとリモコンでTVの電源を落とし、嬉しそうに顔を綻(ほころ)ばせた。「お帰り、奈美! 元気そうで何よりだ」「うん、元気だよ。――ごめんね。お休みの日に、しかもこんな朝早くに」 今は朝の九時半。父も本当はもっとゆっくり寝ていたかっただろうに。私のために早く起きてくれたのだとしたら、ちょっと申し訳ない。「いやいや、気にするな。父さんがな、お前が久しぶりに帰ってくるって母さんから聞いて、楽しみで早く起きちまっただけだ」「そうなんだ?」 私もソファーに座った。居間のカーペットの上には、私がお母さんに頼んであったアルバムが山のように積(つ)んである。大小も、厚みもさまざまだ。「――ああ、それな。さっき母さんと二人がかりで家の中ひっくり返して見つけてきたんだ。大変だったぞ」「そっか……、ありがと。感謝します」 父とは、進路を巡(めぐ)って対立したこともあった。でも私は、父を恨(うら)んだことは一度もない。今思えばあれは、娘が心配な親心からだったんだと思えるから。